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「井伊の赤備え」で知られる井伊直政
大河ドラマ「おんな城主直虎」の放送によって、直政の方にも話題が集まりそうですね。

そんな直政ですが、家族にはどのような人びとがいたのでしょうか。
ここでは井伊直政の2人の妻とその娘について触れてみたいと思います。
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井伊直政の2人の妻はどんな人?嫉妬深かった?


幼少期は今川家に命を狙われるなど苦労した井伊直政でしたが、家康に仕えてからは家臣団の筆頭に上げられるほどの大活躍を見せます。

※参照:井伊直政の母親はどんな人?その危機を救った新野親矩とは?


そんな井伊直政が妻に迎えたのが、家康の親戚にあたる松平康親の娘・花でした。
家康の養女となった上での結婚であり、1590年に花は直政の長男・井伊直勝を出産しています。

その一方で、直政には側室にあたる女性がいました。この側室は、松平家臣印具氏の娘で花の侍女だとも、直政が駿河・田中城に詰めていたころに縁のあった地元の庄屋松村家の娘だとも言われています。そして2人の間に次男、井伊直孝が生まれたのは1590年の事でした。

つまり直政は同じ年に2人の男子を授かった事になるんですよね。


ただ、家臣に対して厳しかったとされる直政でも、正室の花にだけは頭が上がらなかったと言われています。直接の原因は分かりませんが、直政は次男、直孝を引き取りもせず、上野・安中の寺に預けてしまいました。

2人が直接対面したのは、1601年、関ケ原の合戦後の近江・佐和山城であったそうです。これ以後、直孝は直政に引き取られるものの、その1年後に直政は亡くなってしまいました。


一説には、直孝を引き取る代わりに、その母は命を絶ったと言われています。真偽はともかく、そのような話が残ること自体が、花の人柄を想像できてしまいますね。

もしかしたらかなり嫉妬深かったのかも…?

直政の死後、花は出家して唐梅院(とうばいいん)と名乗り、息子の直勝を支え、1639年に亡くなったと言われています。
 
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井伊直政の2人の娘とその嫁ぎ先はどこ?


一方で、井伊直政には2人の娘がいました。

長女・政子は徳川家康の四男、松平忠吉の正室に、次女・徳興院は伊達政宗の長男、伊達秀宗の正室となりました。
母親はわかりませんが、資料の中には「側室を松下家に送り返した」という記載があるので、おそらく正室の花との間の娘だと思われます。


長女、政子の夫である松平忠吉は、徳川家康の四男で江戸幕府2代将軍・秀忠の弟にあたる人物です。北条討伐後に家康が関東に入ると、12歳で元服し、武蔵・忍城主となります。その後、井伊直政の娘である政子を正室に迎えています。

関ケ原の合戦では、井伊直政の後見のもと初陣を飾り、島津軍の島津豊久を討ち取るなどの功績があったといいます。戦後、尾張・清州52万石を与えられ、一時期は家康の後継者候補にもなりますが、7年後に28歳という若さで死去しています。

2人の間には娘が1人いたようです。また、政子は関ヶ原の戦いで傷を負った夫のために津島神社本殿の寄進を行っています。忠吉には側室がいた形跡もないので、夫婦仲はかなり良かったのではないでしょうか。


一方、次女の徳興院夫である伊達秀宗は、仙台藩主伊達政宗の長男で、のち伊予・宇和島藩の初代藩主となりました。側室の子供という経歴や豊臣秀頼の小姓を務めていた経歴を払拭するために、直政の娘である徳興院を正室に迎えたとされています。

徳興院は伊達秀宗との間に二男三女を授かっています。ただ長男の宗実は病気であったため次期藩主の座を辞退、次男の宗時には先立たれています。


政子も徳興院も、直政の娘として陰ながら夫を支えたようすが伝わってくるような気がします。

ただ、2人の息子たちとは異なり、嫁ぎ先の子孫を残せなかったという共通点もあるのも事実。
今だったら週刊誌の話題にされそうな気もしますが、当時の時代の人も何かしら噂をしたのではと思ってしまいます。

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この記事のまとめ


井伊直政の妻と娘についてご紹介しました。

「井伊の赤鬼」として天下に恐れられ、また家臣団にも厳しかったとされる直政ですが、妻であり正室の花には頭が上がらなかったというエピソードは興味深いですね。

こうした女性である以上、嫁ぎ先の夫である松平忠吉や伊達秀宗が、彼女のことをどう思っていたのかも気になってしまいます(笑)