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「徳川四天王」の1人として数多くの戦いで活躍した井伊直政は、関ヶ原の戦いにおいても東軍に多大な貢献を果たしています。直政は単に本戦で活躍するだけではなく、本戦前の調略や後処理でも諸大名に大きな影響を与えており、直政の活躍の内容は多岐に渡ります。


井伊直政の活躍はどのようなものだったのでしょうか。今回は「井伊直政と関ヶ原の戦い」というテーマで、この戦いにおける井伊直政の活躍についてご紹介します。
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関ヶ原の戦いで井伊直政は抜け駆けをしたのか!?


井伊直政は関ヶ原の戦いでどのような働きをしたのでしょうか。

関ヶ原の戦いにおける井伊直政と言えば、娘婿の松平忠吉と共に「抜け駆け」をしたという説が残っています。
そもそも抜け駆けとは何かと言うと、先鋒と決まっていない軍が先に攻撃をする事です。
当時の戦においては、先鋒や一番先に攻撃を加える事は一番槍とされ、名誉なことでした。


ただ、関ヶ原の戦いにおける先鋒は、秀吉の子飼いの武将であった福島正則が務める事が決まっていて、抜け駆けは禁止されていました。それにも関わらず、直政と忠吉は敵軍に銃撃を加えたという説があります。その一方で、2人による抜け駆けはなかったという説もあり、その真偽はハッキリしていないようです。

その後、井伊直政は島津義弘と戦ったらしく、義弘が退却する際に徳川の本陣の横を突き抜けた島津隊を追撃して、義弘の甥にあたる島津豊久を討ち取る手柄を上げました。

しかし、島津隊を追撃していた際、直政は右肘に銃撃を受けて落馬をする大怪我を負ってしまいました。この時の傷が原因で、直政は関ヶ原の戦いからわずか2年後に死亡してしまいます。

※参照:井伊直政の2人の妻について解説。娘の嫁ぎ先はどこ?

関ヶ原の戦いの前の調略に多大な貢献を果たす


関ヶ原本戦における直政の活躍について解説しましたが、直政は本多忠勝と共に東軍の軍監として、東軍の中心的な役割を担ったと言われています。

実は、井伊直政は軍事面だけではなく、外交や内政にも秀でた面を持っていた武将でした。
関ヶ原の戦いの前にも、直政は外交官として全国の大名に東軍に味方をするように外交工作を行い、数多くの武将を徳川側へ寝返らせたといわれます。


その代表的な面々をご紹介しましょう。

・竹中重門
・加藤貞泰
・稲葉貞通
・関一政
・京極高次
・相良頼房


この中で、上の4名は美濃国を領有していた、あるいはゆかりのある武将です。
関ヶ原の戦いが行われた美濃国やその周辺を治めていた武将たちを味方に付けた事も、東軍勝利の遠因にはなっているのでしょうか。

また、秀吉死後の混乱期にも、直政は黒田官兵衛、長政親子と接触し、長政を通して多くの豊臣恩顧の大名を徳川家の陣営に組み入れています。関ヶ原の戦いで東軍が勝利した裏には、直政の多大な貢献があったと言えそうですね。

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関ヶ原の後処理で井伊直政が果たした貢献とは?


さらにさらに、井伊直政は関ヶ原の戦いの後処理にも活躍しています。

西軍の中心人物であった石田三成が処刑される直前まで手厚く保護し、総大将を務めた毛利輝元との交渉を行い、家康への忠誠を誓わせました。

さらに、西軍についた長宗我部盛親のとり成し(これは失敗しましたが・・・)をはじめ、関ヶ原の戦いの後に所領没収となった盛親に代わって土佐に入国した山内一豊の援助を行った他、自分に傷を負わせ、かつ西軍に与しながら唯一領土を減らさなかった島津家との和平交渉を行ったのも直政でした。

また、関ヶ原本戦には参加はしませんでしたが、家康の二男である秀忠の軍を引き留め、秀忠が関ヶ原に間に合わなくした張本人である真田昌幸、幸村親子の命乞いも行い、結局真田親子は高野山に蟄居処分となっています。

こうした多大な貢献によって、井伊直政は石田三成の旧領18万石を拝領すると共に、従四位下に任官を果たしています。

この記事のまとめ


関ヶ原の戦いとその前後における井伊直政の行動について解説しました。

まさに八面六臂の大活躍ですね!
直政の存在なくして東軍は勝利できなかったのではと思ってしまう程です。

ただ、関ヶ原の戦いの2年後に直政は島津家との戦いで負った怪我が原因で亡くなっています。

井伊直政と言えば、家康の跡継ぎとして松平忠吉を押していましたが、もしも彼が生きてい場合、家康の後継者争いがどう変わったのかは、個人的に大変興味深いですね。

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