井伊家発祥の地として注目が集まっている井伊谷。


1590年に井伊家24代目当主である井伊直政が井伊谷を離れた後、この地を治める機会を得たのはかつて直政の家臣であった近藤秀用(こんどうひでもち)でした。近藤秀用とはどのような人物だったのか、どのようにして井伊谷を治めるに至ったのか、気になりますよね。


そこで今回は、井伊直政との関係に触れつつ、秀用が初代藩主をつとめた井伊谷藩についても解説します。

スポンサードリンク

近藤秀用とはどのような武将だったのか


近藤秀用(こんどう ひでもち)は1547年に遠江国(現在の静岡県)に生まれます。父・近藤康用(やすもち)が徳川家康に仕えていたことから、秀用も家康に仕えるようになります。

秀用は武勇に優れており、家康の主要な戦である三方ヶ原の戦いや長篠の戦い、小牧・長久手の戦いなどに従軍し、武功をあげています。豊臣秀吉によって行われた小田原征伐では、その武勇をなんと秀吉から絶賛されたほどでした。

このように武将として申し分ない経歴を持つ秀用でしたが、家康の命令で井伊直政の与力として働くことになります。ただ、井伊直政は部下に厳しい一面があり、僅かな失敗でも許さず手討ちにする事も少なくありませんでした。

このことに耐えられなかったのでしょうか。秀用は1590年に直政のもとを離れてしまいます。
その詳細や理由などについては後ほどご紹介しますね。


その後、1602年に直政が死亡すると、秀用は徳川秀忠に見出され上野国に5000石の所領を与えられます。1603年には家康とも和解をし、1614年には相模国内に10000石に加増されました。

大坂夏の陣で活躍をしたことを契機に、1619年に井伊谷藩1万5000石を成立させました。
この後もさらに2000石の増加を受け、最終的には石見守にまで出世し、1631年に84歳で天寿を全うしました。

非常に波乱万丈な人生ですね。途中で失踪しつつも後に藩主として返り咲くというところから、近藤秀用とは徳川政権も放っておけないほど優れた人物ではないでしょうか。

スポンサードリンク

近藤秀用はなぜ井伊直政のもとを離れたのか?


それでは、近藤秀用はなぜ井伊直政のもとを離れたのでしょうか。
この点を紐解くにあたり、秀用と直政の関係に着目してみましょう。

近藤家と井伊家は同じ遠江国の出身であり、家康に仕えるという共通点があります。
一方で、秀用は冷たい性格の直政を好いてはいなかったようです。

また、秀用は直政よりも10歳以上年上であり、家康の部下として各戦いで武功をあげた実績もあることから、直政の部下(陪臣)ではなく家康の直属の部下(直参)になりたいと考えたのかもしれません。

こうした秀用の動きを疎ましく思った直政は、秀用が家康の家臣となることを徹底的に妨害したみたいですね。しまいには、直政が秀用を暗殺しようとしたため、秀用は伊勢へと姿をくらましてしまいます。暗殺疑惑が持ち上がるくらいですので、二人の関係は相当悪いものであったと言えますね。


ただ、後に江戸幕府に大老を輩出した井伊家でも、当時はそこまでの権力がなく、家臣の選定も家康が実権を握っていたようです。家康自身も勝手に直政のもとを離れた秀用を評価せず、直政の生前は直臣となりたいといった嘆願を受け入れていません。

その一方で、秀用が直政の家臣となるという家康の命令には、直政自身も逆らうことができなかったため、直政も頑なになってしまったという見方もできるかもしれませんね。

近藤秀用が藩主をつとめた井伊谷藩について


井伊谷藩(いいのやはん)は「井伊谷」という名前がついているため、井伊直政やその子孫によって治められたかのようなイメージがありますよね。ですが、前述したとおり井伊谷藩とは、1619年に近藤秀用が井伊谷への転封を契機に成立させた藩です。

当初は15000石でしたが、1621年には2000石増加し、合計17000石の藩となります。
戦国時代に秀用が挙げた武功がようやく認められたといったところでしょうか。


ところが、この井伊谷藩は10年余りの間に消滅してしまいます。秀用は17000石の所領を季用、用可、用義といった息子たちに分配してしまいます。江戸時代における「藩」とは10000万石以上の所領を保有することが成立の条件であり、10000石未満は藩として見なされませんでした。

ですから、井伊谷藩は秀用一代限りで終わってしまったのです。


秀用の所領を受け継いだ子どもたちは旗本となり、近藤季用は金指近藤家、近藤用可は気賀近藤家(大谷近藤家)、近藤用義は井伊谷近藤家としてそれぞれ発展していきます。

藩を成立させたにも関わらず、一代で終わらせてしまった秀用の行為はもったいないと感じますが、小さな藩の藩主として生きるよりは旗本として近藤家を発展させる道を選択したことは、家の存続のためには賢明な判断だったのかもしれないですね。

スポンサードリンク

この記事のまとめ


近藤秀用の人物像と井伊谷藩について解説してきました。近藤秀用とは徳川家康の部下として数々の武功を挙げる武将であったと言えるでしょう。

一方で、井伊直政とは折り合いが悪く、その関係は直政の家臣になることを拒んで出奔するほど悪化していました。直政の死後は徳川家との関係を深め、井伊谷藩を成立させ初代井伊谷藩主となります。しかし、所領を息子たちに分配したため、井伊谷藩は秀用一代限りで消滅しました。

秀用の名前はあまり聞きなれませんが、井伊家と似たような出自であること、井伊直政と因縁があること、井伊家が井伊谷を離れたのちにその地を所領とした一族であることを覚えておくと、2017年大河ドラマ「おんな城主直虎」の内容も、ぐっとつかみやすくなるかもしれませんね。


なお、以下の記事では近藤秀用の父親である近藤康用らの総称である「井伊谷三人衆」について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:井伊谷三人衆とは?井伊直虎との関係やその後も解説!