井伊谷三人衆」と呼ばれる武将たちについてご存知ですか?


こうした武将たちを輩出した井伊谷という地は、その地に接する隣国を攻め入るための重要な拠点として、甲斐の武田氏、駿河の今川氏、三河の徳川氏が虎視眈々と狙う要地でもありました。


こうした井伊谷の地を治めていた武将たちはどのような人物だったのでしょうか。
井伊直虎をはじめ、徳川家康や井伊直政との関係についても詳しく見ていきましょう。

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井伊谷三人衆とは?井伊直虎との関係も解説


井伊谷とは、現在の静岡県浜松町に位置し、その歴史は古く、南北朝時代にはすでに井伊氏が支配していた領地です。そして「井伊谷三人衆」ですが、この地を治めていた領主である以下の3人のことを指します。


近藤康用(こんどう やすもち)
・菅沼忠久(すがぬま ただひさ)
・鈴木重時(すずき しげとき)



この3人はいずれも井伊家の被官であった武将です。
また、井伊家が仕える今川家に対しても忠節を大切にしていました。


井伊谷三人衆と関係の深い井伊家についてみていきましょう。


戦国時代、井伊家は数々の不運に見舞われ、次々に当主や重臣たちが殺害されてしまい、一時井伊家当主が不在になった時がありました。その際、女性で、しかも井伊家の菩提寺である龍潭寺に出家し「次郎法師」と名乗っていた「おとわ」が還俗し、井伊家の当主となりました。

これが後に女地頭と称される井伊直虎です。直虎は今川家に命を狙われていた跡継ぎで幼き井伊直政が成長するまでの間、「中継ぎ」として当主を務めます。


直虎は永禄11年(1568年)に領内に徳政令をだしますが、その直後、今川氏の家臣である小野政次の裏切りにより、井伊谷城を奪われてしまいます。その際、井伊直虎は井伊谷三人衆と、後に主君となる徳川家康の力を借りて無事に井伊谷城を奪い返すことに成功します。

以後、徳川氏との関係を深めていく井伊家と井伊谷三人衆ですが、井伊家に被官していた近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時が、井伊家に仕える身でありながら、徳川家康とどのような関係を結んでいったを掘り下げていきましょう。

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徳川家康の遠江侵攻に貢献した井伊谷三人衆


井伊谷は隣接する甲斐・三河・駿河の国々が隣国を責める重要な土地として、虎視眈々と狙われている土地でした。しかし、遠州浜名湖の沿岸部を有する領主たちは、今川氏への忠誠心が大変強かったため、この地を攻略したい徳川家康は何とかして遠江侵攻の足掛かりを探していました。

そこで家康が目をつけたのが、今川家に居城を奪われていた菅沼定盈(すがぬまさだみつ)という武将です。家康は菅沼定盈を使って井伊谷三人衆の切り崩しをはかりました。

まず、定盈は同族のよしみで井伊谷三人衆の一人である菅沼忠久に接触します。これが成功し、忠久が縁戚の鈴木重時を抱き込み、最終的には近藤康用まで取り込みました。この戦略により、井伊谷三人衆は家康に従う事になりました。


その後、家康は防備の弱まった井伊谷から三河主力軍を進めて、曳馬城(後の浜松城)の陥落に成功し、その後15年以上もこの城を居城としました。ただし、この遠江侵攻の際に、三人衆の1人である鈴木重時が戦死しています。


なお、曳馬城がなぜ浜松城という名前に変わったのかについては以下の記事でもご紹介しているので、興味があればご覧になってみて下さいね。

※参照:浜松城と徳川家康の関わりや江戸時代以降の歴史について解説

井伊谷三人衆のその後は?井伊直政との関係は悪かった?


井伊谷三人衆は今川氏の策略により井伊谷城を奪われた際、当主であった井伊直虎と共に城の奪還を果たして後は、徳川家康に臣従します。

それでは、その後の井伊谷三人衆はどうなったのでしょうか。

彼らは家康に嘆願し、かつての主君で無罪の罪で謀殺された井伊直親の無念を晴らそうと、小野政次を張り付けの刑に処します。さらに政次の息子二人も一緒に処刑させています。

しかし、甲斐の武田信玄に井伊谷を攻められ、主君にあたる井伊直虎、直政とともに、井伊谷三人衆も浜松城に逃れます。家康は三方ヶ原の戦いで信玄に敗れますが、信玄の死によって武田軍は滅亡への道を歩みます。


その後、菅沼忠久は井伊直政に仕えるも1582年に死去。鈴木重時が1569年に戦死した事は既にお話しました。1517年生まれの近藤康用は既に年老いていたため、息子の秀用を直政に仕えさせ88年に亡くなっています。

その井伊直政ですが、その働きによって徳川四天王の1人に名を連ねるようになりました。

ただ彼は家臣に厳しい一面を持っており、その為か、なんと井伊谷三人衆の後の世代の全員がその後井伊家を離れています。近藤康用と菅沼忠久の子孫は旗本になり、鈴木重時の子孫は水戸徳川家に仕えました。

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この記事のまとめ


井伊谷三人衆についての簡単な解説と、徳川家康の遠江侵攻における役割やその後の動きについてご紹介しました。

井伊谷三人衆はあまり歴史の表舞台には出てこないまでも、戦国の世から、数々の同盟や謀略などをかいくぐった歴戦の武将たちなのだと感じます。その子供たちは最終的には井伊家から離れたとは言え、以後260年以上も続く江戸時代と共に連綿と続く井伊家の礎を、陰ながら力強くささえた人々だったと言えるでしょう。


なお、以下の記事では近藤康用の子供で初代井伊谷藩主を務めた近藤秀用という武将について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:近藤秀用とは?井伊直政との関係や井伊谷藩について!