井伊家と聞くとあなたは何を連想しますか?井伊家には井伊直虎や直政、あるいは幕末の大老である井伊直弼以外にも、歴史に名を残した人々が多く存在しています。
今回は、井伊家の家系のルーツに迫ってみたいと思います。他にも、井伊家の家紋である橘紋や、現代でも続く井伊家の子孫の方々についてもご紹介します。
井伊家の家系のルーツは?ご先祖様は捨て子?
井伊家の家系のルーツをさかのぼると、初代当主である井伊共保(いい ともやす)に行き着きます。この井伊共保は元々は捨て子だと言われているのですが、遠江の国司を務めていた三国共資という人物の養子になり、その家督を継いだとされています。
その後、井伊共保は自分が捨てられていた場所である井伊谷(いいのや)に城を構えて井伊氏を名乗ります。ここに井伊家のルールはあると言えそうですね。
南北朝時代になると、遠江の豪族として名を馳せていた井伊家は南朝に味方し、その後南朝の衰退と共に北朝方の今川氏の家臣となります。しかし、主君にあたる今川家との関係は決して良いものとは言えなかったようで、何度も争いの危機を迎えたと言われています。
今川家との争いを防ぎたいと考えた、井伊直虎の曽祖父にあたる井伊直平は娘を今川義元に妾として差し出し、何とか危機を回避したこともありました。
一方の今川義元は、この娘を妾ではなく妹として迎え、家臣に嫁がせます。
実はその直平の娘と家臣の間に生まれた子が、徳川家康の後の正室となる築山殿なんですね。
井伊家の家紋・橘紋とその由来について
丸に橘の花が描かれた橘紋が、井伊家の家紋になります。
日本には多くの家紋が存在しますが、井伊家の家紋である橘紋は、日本十大家紋の一つに数えられるほどポピュラーな家紋と言えます。
橘は昔から日本に自生する常緑樹で、生命力や長寿のシンボルとされてきました。
この橘が多く生息している地域に橘紋を使っている家系が多く、身近にあり生命力豊かな橘が家系のシンボルとされるのはすごく自然な流れだったのかもしれません。
そこで井伊家の家紋についての伝承を少しご紹介します。
井伊家の初代当主であった井伊共保ですが、実は彼は実は捨て子であったとする説があり、どうやらそこに井伊家がこの家紋を使った由来があるようです。
1010年の元旦、遠江国井伊谷の八幡宮神主がお手洗いの井戸の傍らに赤子が捨てられているのを発見しました。その赤子は端正な顔立ちで大きい瞳が明るく、とても聡明そうであったため神童と噂され、その後その子が井伊家の当主・井伊共保となるのですが、その捨てられていた井戸の傍には立派な橘が咲いていたのでその捨て子の産着の紋としました。
これが井伊家の橘紋の始まりだと言われています。
その後、神童の噂を聞きつけた遠江国の豪族・三国共資に引き取られた共保は元服と同時に、共資の娘婿となり家督を継いだのち井伊氏を名乗ったようです。また、この三国家には男子ができなかったことから、生命力の象徴である橘を家紋に取り入れたとする説も存在しています。
井伊家の明治時代以降の子孫について
その後の井伊直虎、直政の活躍は以下の記事を見ていただきたいのですが、直政死後の井伊家はどうなったのでしょうか。
※参照:井伊直虎ってどんな人?年表などを小学生向けに解説!
※参照:井伊直政の関ヶ原の戦いにおける活躍についてわかりやすく解説
井伊直政には長男の井伊直勝、次男の井伊直孝という2人の息子がいました。本来は長男が家督を継ぐはずですが、長男の直勝が病弱であったため(一説では一族を率いる能力がなかったとも)次男の直孝が後継者となり、直政の跡を継いで彦根藩の藩主となっていきます。
一方の井伊直勝も単に廃嫡されたのではなく、上野国(今の群馬県)の安中に領地を与えられています。この地は井伊直政が家康の関東移封後に治めていた地であり、幕府としても直勝に配慮していた事が分かります。
彦根藩の藩主となった本家筋は、江戸時代には譜代大名筆頭の家柄となり、多くの大老を輩出しています。幕末には34代当主にあたる井伊直弼が安政の大獄を行い、桜田門外の変で暗殺された事も有名ですね。
井伊家は江戸時代には譜代大名筆頭の家柄となり、多くの大老を輩出しています。幕末には34代当主にあたる井伊直弼が安政の大獄を行い、桜田門外の変で暗殺された事も有名ですね。
大政奉還後、彦根藩は新政府側に加わり、鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争に参加するなど動乱の幕末においてもその名を知らしめました。
明治に入り伯爵・華族となった井伊家は、井伊直弼の次男・井伊直憲を当主として存続。その孫にあたる井伊直愛(なおよし)は華族制度廃止後、井伊家の旧領である彦根市の市長を36年間に渡って務め上げました。
井伊家の現当主は、直愛の孫娘の夫で、彦根市立彦根城博物館館長を務めている井伊岳夫氏が務めています。岳夫氏は婿養子であるため、井伊家の当主としては「直」の字を用いた井伊直岳と名乗っているようですね。
また、長男の井伊直勝の家系も三河西尾藩、江掛川藩などの藩主を経て、江戸時代の与板藩主として幕末まで存続しました。明治維新後は子爵・華族となり、現在は京都井伊博物館の館長を務めている井伊達夫氏が当主を務められています。
この記事のまとめ
井伊家の家系のルーツをはじめ、その家紋や子孫の方々などをご紹介しました。
井伊家のはじまりは、なんと捨て子であった井伊共保にあります。彼は三国家に養子となり、自分が捨てられていた井伊谷を治めていた事から井伊氏を名乗ったと言われています。また、共保が拾われた傍に立派な橘が咲いていたため、橘の花を井伊家の家紋にしたと言われています。
また、井伊家の子孫は直政の2人の息子の家系が現在に至るまで存続しました。初代の共保が1010年に誕生して以来、1000年以上も家名を存続している事からも、井伊家の家名の重みが分かりますね。
お尋ねします。
本ホームページに記載の家紋は「彦根橘」だと思います。
龍潭寺や妙雲寺では「丸に橘」が使われています。
直虎の時代にはまだ彦根には至っていないので、
「丸に橘」が使われていたと推測します。
いつの時代にだれが「彦根橘」に変更されたのかご教示ください。