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2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」によって浜松市の観光客が増加する見込みとのこと。

そんな浜松市の名所と言えば浜松城が思い浮かびますが、この城は徳川家康と縁がある事でも知られています。


規模は小さいながらも様々な異名で親しまれている浜松城。

その歴史について、江戸時代以降を含めて詳しく見ていきましょう。
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浜松城と徳川家康の関わりについて解説


浜松城は16世紀に築城された静岡県浜松市にある野面積み(自然石を上下に積み重ねたもの)の石垣で有名な城です。城郭は南北約500m、東西約450mあり、築城様式は平野の丘陵に築かれた平山城としても知られています。


浜松城はもともとは曳馬城(ひくまじょう)という名前でした。今川家の家臣の飯尾氏が支配していたこの城を1568年に攻め落とした家康は、その2年後にこの地へ本拠地を移します。

その際、「曳馬」という名前が「馬を引く」つまり負け戦に繋がり縁起が悪いという由来から、この地にあった荘園の名前を取って「浜松城」へと改めました。


この浜松城で、家康は29歳から45歳までを過ごしました。姉川の戦いや三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、そして小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事に当たります。家康にとっての浜松城へ在城していた17年間は、彼にとってまさに試練の時代だったと言えそうですね。


その後、1586年に家康は駿府城へ拠点を移したため、浜松城から離れる事となります。
1590年に家康が関東へ移封された後は、豊臣秀吉の家臣である堀尾吉晴が浜松城へ入り、関ヶ原の戦いまでこの地を治めました。

江戸時代の浜松城の歴史について


江戸時代に入ってからの浜松城の歴史も見てみましょう。


この時代の浜松城は、代々の徳川家とゆかりの深い譜代大名が居城し、藩政260年の間に、25代の城主がこの城を守りました。城主の中には、在城中に幕府の要職に就いた者も多くいたため、浜松城は「出世城」と言われるようになりました。

これを示す一句として「はま松は、出世城なり、初松魚」という作品も残されているほどです。


それでは、浜松城の歴代城主はどの程度出世したのでしょうか。
なんと、老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人といった要職に就いた者を輩出しているのです。「出世城」の名前が嘘ではない事が分かりますね。


その中でも特に有名なのが、江戸時代後期に老中として「天保の改革」を進めたことで知られる水野忠邦です。忠邦は幕閣入りを目指すために肥前唐津城主から浜松城主へと移転を希望し、そして浜松城居住中に老中にまで出世しているのです。

忠邦以外にも「出世城」の恩恵を受けたいと思う大名は大勢いた事でしょうね。

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明治以降の浜松城の歴史について


江戸時代と徳川家の支配が終わった後の浜松城はどうなったのでしょうか。

明治4年(1871年)、浜松城は廃城令によって払い下げとなり、城としての役目を終えました。
その後、戦災及び都市化によって城域は天守曲輪とその周辺を残すだけとなりました。


その後、昭和33(1958)年には鉄筋コンクリート造りによって天守閣が再建されています。
昭和34(1959)年には、浜松市の史跡に指定されました。

現在の浜松城は博物館として利用され、この辺りの地域の歴史に触れることができます。

地下一階地上3階建ての造りで、地下には井戸が残され、1・2階には家康が19歳の時に着用したといわれる金陀美具足や600分の1のスケールで城と城下町の模型が展示されており、3階は展望スペースとなっています。

その周辺は公園として整備されており、桜の名所としても人々の目を楽しませています。

この記事のまとめ


浜松城と徳川家康の関わりや、その後の歴史についてご紹介しました。

徳川家康が駿遠経営の本拠地と定めて以来、浜松城は城郭やその城下町が整えられました。家康が駿府に移ったあとも、徳川ゆかりの大名が代々城主をつとめ、要職についた者を多く輩出したことから「出世城」という別名で呼ばれるようになりました。

徳川260年を支えた重要な城の一つと言える浜松城。大河ドラマ「おんな城主直虎」の放送によって、この城を訪れる観光客の数は爆発的に増えそうですね。

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